ニコリーニ



フリウリの南東部トリエステから南に15km、イストリア半島北部のスロヴェニアとの国境の港町ムッジャは紀元前8世紀ごろには砦(要塞化された村)が作られ、その後も西ローマ帝国をはじめ様々な民族や国家の干渉を受け、統治されてきました。1420年にヴェネツィア共和国の一部となり、1797年のヴェネツィア滅亡後、オーストリア帝国の統治下に入り第二次世界大戦後まで海軍造船業の重要な拠点として繁栄しました。

ニコリーニは、そんなムッジャの港から続く急な坂道を上がった高台の住宅街にある小さな家族経営のワイナリーで、彼らの畑も街を見下ろす丘の上に位置しています。イストリア半島のほとんどの地域と同じく、貝殻などの海洋堆積物が豊富な肥沃な粘土質と砂岩が混じった土壌からなる畑は約2ヘクタールの広さで(家族のための菜園が0.5ヘクタール、ブドウが1.5ヘクタール)、化学的な農薬に頼らない形で栽培を行っています。ブドウの平均樹齢は25年でこの地域の気候や土地をより表現できるのは伝統的な土着品種(※)であるという考えから、数本残っていた樹齢100年を超えるブドウ樹から株分けし、単一で醸造をできるまでに徐々に収穫量を増やしてきました。コンパクトなセラーで使用される二酸化硫黄は最低限のみで、伝統的かつシンプルな仕込みを心掛けています。

※モスカート ジャッロ イストリアーノやボルゴーニャという品種の苗は、苗屋が作っておらず市場に存在しないため、原産地呼称のリストから外れてしまっています。そのため、元々土地に根付いていた品種でありながら、その土地を名乗れない(ワインもvino格付)という現象が起こっています。

ムッジャは、ハムやチーズをつまみながらワインを楽しむ、オスミツァと呼ばれる農家が営む居酒屋が近年まで地域の伝統として残っていた場所で、ニコリーニも古くから豚を飼いハムを仕込み自らのオスミツァで供していました。1918年頃からオスミツァ用のワインの生産を始め70年ほど続けてきましたが、1990年より自家ボトリングをはじめたことからオスミツァの営業は限定的なものになり、今は営業を止め、全てのワインをボトリングし販売しています。また一族の歴史を語る上で欠かすことのできないグラッパ造りは、小型の直火式蒸留機で自らのヴィナッチャを使用して行われ、ビアンコ(透明)とリゼルヴァの2タイプが生産されています。

当主のジョルジョと妻ロッサーナ、息子エウジェーニオの3人によって年間約10000本をボトリングしています。

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